去年の10月、父を亡くしまして。
一年を喪に服してどうこうという縛ったつもりはなくても、何となく生活に必要最低限のこと以外、あまり活動的じゃなくなっていました。
このブログは家電好きが高じて始めたものだけど、根っこのところでは無意識のうちに、機械全般が好きだった父に対して、離れて暮らす私の生存報告と存在意義を送り続ける術になっていた気がするので、ちょっと進むべき道を見失って、更新も途切れがちでした。
命日を過ぎた先月半ば、久しぶりにカメラ片手に一人、小雨降る湘南・大磯へ。
少し高台にあって海も山も眺められる「大磯城山公園」の展望台で、1時間ほど風に吹かれてきました。
(その後風邪を引いたのは自業自得)
ゆるやかな丘陵に造られた城山公園は、木々生い茂る豊かな自然の中に、日本情緒あふれる茶室や郷土資料館などが点在して、高台にあがれば相模湾から伊豆半島や、晴れてればら富士山などが一望でき、のんびりと散策が楽しめるスポットです。
何も考えず、何も意図せず、歩き、止まる。
ただ何か心の奥の音が鳴った時、時々シャッターを切って、また歩く。
雨が上がって、濡れたロープに光ったしずくがキレイで。
軒下から見えた緑滴る葉と果実が清々しくて。
誰もいない茶室で一人正座をした空気が心地よくて。
ちょっとずつ、ちょっとずつ自分の時間が動き出す音を聴いた。
何だかもやっていた目の前の霧がだんだん晴れて、道らしい道をまた歩き出す。
そうなってくると、やっぱ私は鉄を探す(笑)。
侘び寂びなどではなく、「錆び」だ。なんなんだ、この錆びセンサー。自分でもまったく意味が分からない。
「写真を撮る」ということについて、色々これまで語ってきたけれど、一眼レフカメラとか、スマホとか、画質とか、発色とか、値段とか、重さとか、光とか、影とか、最近ちょっとどうでもよくなってきた。
シャッターを押せば写真は撮れる。
でも、何かを感じなければ押さない。撮るために立ち止まらない。近づこうと歩き出さない。
気持ちを写真に載せるんじゃない。気持ちが動くから写真が撮れるんだ。
仕事でも、記録でも、芸術でも、趣味でも、それは同じ。
そんなこと思いながら大磯の街を歩いたわけじゃなくて、完全後付けだけど(笑)。
散歩の最後に、この街の私的シンボルというか、もはや写真の父というべきか、いつもお世話になっている大磯在住の写真家・小澤忠恭先生の写真展に顔を出した。
というより、そもそもの目的はこっちなんだけどね。
何となく気恥ずかしくて、いつも写真の話を面と向かって出来ないけど、その代わり展示写真から否応なしに静かで熱い思いを感じられるので、毎年時間をみつけて訪問をしている。
今年もギャラリーは大盛況、先生ご自身も接客中でご挨拶程度で失礼しようと思ったら、わざわざ玄関まで見送りに来てくださって、しばし立ち話。
ぼんやりしていた私に、ものすごいことを言ってくれた。
例えていうなら、枯れた木に残った一葉を感傷的に眺めていたら、いとも簡単に、いさぎよく吹き飛ばして、「次の芽吹きを待てばいい」と言ってくれたような。
笑いながら、過激に、温かい目をして。父のように、神のように、私を道へと押し出す。
天の声を聴いた気がして、また歩き出した。